建築を旅してplus

函館市 編 (Ⅱ) ①

旧相馬邸

 旧相馬邸は、北海道屈指の豪商といわれた相馬哲平の邸宅です。

 越後の国で養蚕の手伝いをしていた相馬哲平は長い間の鎖国が解かれ、箱館・横浜・長崎が開港される時期を見計らって、1861年(文久元年)に28歳で海峡を渡ります。

 戦争終結後の米の騰貴を見越した投機買いなどから財を築き、さらに、豊漁の続くニシン漁などの投資から、一代で北海道屈指の豪商に上り詰めたというサクセスストーリーを実現した人物なのです。

 さらに、函館貯蓄銀行取締役や商工会議所議員を務めたほか、公会堂や図書館書庫建設などの公共事業にも、多額の寄付を行なってきました。

 この建物は、1908年(明治41年)から、函館の行政の中心にある元町公園の隣で旧イギリス領事館を眼下に望む位置に、重厚な姿でひっそりと建っています。

 基本的に純和風建築のように見えますが、応接間が洋館になっており、いわば和洋折衷の建物といえましょう。 この洋館内外には、細かな唐草状の彫刻が施されており、見るに一件の価値があります。

 正面にはむくり破風の大きな玄関があり、隣の洋館には窓額縁(窓枠と壁の隙間を隠すための装飾部材)の細工がみごとです。

 さらに、大きな土蔵も配置されています。訪れた時には土蔵を改修中でしたが、100年以上の歴史を持つ、これだけの建物を維持するのは大変なんだなぁーと実感したところです。

 細部を見ますと、表面にうねるのある手造り窓ガラス、鳳凰が彫られた欄間、屋久杉をふんだんに使った天井、8種類の釘隠しなど、さまざまな発見があります。 

 さらに、展示物として、「江差屏風」や「蝦夷絵巻」、西郷隆盛、勝海舟、榎本武揚等の筆による掛け軸などが展示されており、見所満載です。

 また、中にある喫茶室では食事や喉を潤すこともできます。

 なにやら、ご利益のありそうなこの建物、多くの方々に訪れてほしいものです。

 

竣工 - 1908年(明治41年) 

構造・規模 - 木造平屋一部2階建 延床面積680㎡

所在地 - 函館市元町33−2

受賞歴・指定等 - 市歴史的景観賞、歴風文化賞、伝統的建造物

函館市 編 (Ⅱ) ②

旧入村質店 ─ 茶房ひし伊

 入村家は新潟県出身です。明治30年代に函館で呉服店を開きましたが、その後、質店に転業し、3度の大火にも耐えてきたという黒漆喰仕上げの貴重な建物です。 

 特に昭和9年の大火でも焼け残ったとして、有名になったといいます。 

 さらに、余談ですが、石川啄木の妻節子も質屋の時代に、この建物と縁があったようです。

 1982年(昭和57年)には「茶房ひし伊」として、開店しました(上の写真では左側の建物です)。 外観からは3棟の建物が同じ構造のように見えますが、上写真右側から、1905年(明治38年)建築で鉄筋コンクリート造2階建ての主屋、中央は1905年(明治38年)建築の土蔵造り2階建て、防火扉をがっしりつけた左側の建物は、現在カフェとして使われているものですが、質物が入りきれなくなったために、1921年(大正10年)に増築された石造り2階建ての蔵となっています。  

 

 当時の質店は、お金を借りるだけではなく、財産保管の役割として使われたことから、入村家では防火用の味噌を壁一面に塗り、大火に備えたというエピソードが残っています。

 函館と大火の関係ですが、函館市内では2000戸以上の焼失家屋があっただけでも6回を数えます(明治12年、29年、31年、40年、大正10年、昭和9年)。 浜風により、小さな火災が、またたくまに大火になったといいます。 このような経験から、建築や街区計画にあたっては延焼を防ぐための方策が重要となったのです。

 1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に発生した、函館大火後の開拓使の防火造建築奨励施策とは、石造り、れんが造り、土蔵造りに対して資金融資を行うものでした。これを機に、有力商人達は防火造り町家を建築して行ったのです。  

 

 このようなことから、中央の建物は土蔵造り、カフェのある建物は石造りとなっていますが、特出すべきは1905年(明治38年)建築の主屋が鉄筋コンクリート造2階建てであることです。 

 函館で鉄筋コンクリート造の建物が本格的に建てられ始めたのが、大正後期から昭和初期にかけてだといいます。

 しかも、旧第一銀行札幌支店や旧安田銀行函館支店、旧日本銀行函館支店、旧今井百貨店函館支店など、銀行建築や大型商業施設に使われた構造ですので、明治時代の鉄筋コンクリート造の店舗併用住宅は全国的に見ても珍しいそうです。

 なお、3棟共、外観は黒地になっていますが、建設当初は白地でした。

 太平洋戦争の空襲に備え、黒地に塗り替え、現在は表面に黒漆喰を塗って仕上げています。  当時、古建築をカフェに再利用する例はほとんどなかったということですので、リノベーションカフェのさきがけですが、30年以上も継続して使われています。

 私が行った時もずいぶんとお客さんが来ていました。先見の明があったんですね。

 

上部写真向かって右側から、主屋:竣工 - 1905年(明治38年) 構造・規模 - 鉄筋コンクリート造2階建蔵:竣工 - 1905年(明治38年) 構造・規模 - 土蔵造2階建蔵:竣工 - 1921年(大正10年) 構造・規模 - 石造2階建

所在地 - 函館市宝来町9−4

受賞歴・指定等 - 歴風文化賞

函館市 編 (Ⅱ) ③

五島軒本店旧館

 五島軒の初代経営者は若山惣太郎といい、1855年(安政2年)に埼玉の医者の家に生まれますが、医者になるのを嫌い、上京するも、米相場に失敗します。 

 再起を賭け函館に渡ると、1879年(明治12年)にはロシア料理とパンの店を開店しています。つまり、この年が五島軒の創業ということになりましょうか。

 この時の初代コック長が五島英吉(本名 宗近治)という人物でした。この五島軒の名称は、この人物の功績・人格にちなんで命名されたものです。

 

 さて、この五島英吉とは、どのような人物だったのでしょうか。

 五島英吉は五島列島の出身で、長崎奉行所の通辞官(通訳)をしていましたが、戊辰戦争に巻き込まれて箱館に渡り、残党狩りを逃れてハリストス正教会にかくまわれ、そこで働きはじめます。

 その後、ロシア料理とパンの作り方を覚え、惣太郎と出会いから、一緒に商売を始めました。 特に、ロシア料理の腕が抜群であり、7年間コック長を努めましたが、1886年(明治19年)、火災で店が焼けたのをきっかけに、横浜へと転居してしまいました。

 なお、当時の函館人はロシア料理よりもフランス料理嗜好が強かったことから、西洋料理店に転換したそうです。

 その後、数回の被災にあり、その都度、建て直しましたが、この建物は1934年(明治9年)竣工によるものです。本当に、この時代を紐解くとドラマがありますね。

 

 さて、建物を見てみます。 外部は装飾が胴蛇腹や軒蛇腹に見られる程度の、とてもシンプルで上品なデザインですが、内部は、一転して装飾性が豊かです。

 これらの評価もあり、平成9年には国の登録有形文化財となっています。 

 内観をお示しすることができないことは残念ですが、 アール・デコ的な要素もあり、確かにすばらしいもののようです。 

 

竣工 - 1934年(昭和9年) 

構造・規模 - 木造・鉄筋コンクリート造2階建 1865㎡

所在地 - 函館市末広町4-5

設計者 - 亀井勝二郎、竹下茂

施工者 - 勝田組

受賞歴・指定等 - 国登録文化財、函館市景観形成指定建築物

函館市 編 (Ⅱ) ④

旧カール・レイモン居宅

  函館でカール・レイモンといえば、有名なドイツ式ハム・ソーセージのブランドです。

 カール・ワイデル・レイモンは1894年チェコの食肉加工職人の家庭に生まれ、14歳で食肉加工マイスターの教育課程に入学、マイスターの称号を得ます。

 18歳でベルリンでの食肉工場勤務を経て欧米で加工技術や経営学を学んだ後、東京の東洋缶詰で技術指導を行っていました。

 日米合同の仕事で函館に立ち寄った際に常客300人を収容できる函館随一の勝田旅館の娘で英語も堪能であったという勝田コウと出会い、愛をはぐくみます。

 同盟国とはいえ、当時の出来事です。

 結局、周囲の反対を押し切り、ドイツ生家に戻ってハム・ソーセージ店を開きます。しかし、2年後には函館に戻り、結婚と相成ります。

 ハム・ソーセージの店と工場を開業すると、当初は日本人の食習慣に合わず、受け入れられなかったものの、精力的に製造を続けるカール・レイモンの評判が広まっていきました。

 特に、函館に寄港したドイツ軍艦からの大量受注をきっかけに店が繁盛するようになりました。

 この建物は観光シーズンには賑わいを見せる「函館カール・レイモン」直営店、「レイモンハウス元町店」の隣に、ひっそりと建っています。

 昭和5年建築のロシア人富豪D.N.シュウエツの居宅だったものを、カール・レイモンが昭和13年に購入したものです。

 建物を見てみますと、木造モルタルの外壁に縦長の外開き窓といったシンプルで、現代的、とても昭和5年建築とは思えないたたずまいです。 

 モダニズムの影響も受けているのではないでしょうか。  カール・レイモンは奥さんとともに、1984年(昭和59年)に、ドイツに嫁いだ娘さんを頼ってミュンヘンに帰国しますが、なじめず、同年、函館に戻ります。

 行きも帰りも盛大な歓迎ぶりだったといいますから、如何に函館市民に好かれていたかがわかります。

 上記に述べた以外にも、波乱万丈の半生がありました。

 ハム・ソーセージの製造以外に、彼が追い求めたのは「欧州統合」と「畜産業の普及」でしたが、ナチス・ドイツに目を付けられ無国籍となったり、戦時中はスパイ容疑がかけられるなど、いわれなき追害を受けたといいます。

 しかし、晩年には畜産業への貢献により「勲五等双光旭日賞」をはじめ、多くの表彰を受けます。さらに、EU本部からも感謝状を受けるなど、その功績はようやく評価されはじめたのです。  

 1988年(昭和63年)には奥さんと娘さんに見取られ、93歳の生涯を閉じました。 これはドラマですね。

 

竣工 - 1930年(昭和5年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市元町30−3受

賞歴・指定等 - 函館市伝統的建造物

その他 - 旧D.N.シュウエツ邸 

函館市 編 (Ⅱ) ⑤

旧目貫商店

 二十間坂下の角地に、この4階建てのビルは建っていますが、淡いピンク色の外観でアイストップとなっています。

 昭和初期には婦人服を扱う洋服店となり、戦後は北斗ホテルとして利用された時期もありました。現在は、北斗ビルですが、当時は目貫商店と呼ばれていました。

 設計者である中村 鎮は、福岡県生まれで、大正時代から、昭和初期にかけて活躍した建築家です。早稲田大学在学中から、すでに建築評論を行なう有名人でしたが、やがて戦前日本を代表する建築評論家となっていったのです。

 

 また、中村 鎮といえば、中村式鉄筋コンクリートブロック構造(鎮ブロック)が代名詞になっていますが、これは、木造と同等の価格にするために開発された鉄筋コンクリート造で、リブを持つL型コンクリートブロックを組み合わせるシステムであり、コンクリート製型枠を打込型枠とするものですが、型枠コンクリートブロック造との違いは、偶角部やT字型部など、部分的にコンクリートを打設するというものです。

 また、この構造は東京銀座街をはじめとして、全国各地で119棟が建てられたといいます。

 函館と中村 鎮との関係ですが、独立後、函館区の民間建物を設計依頼され、その工期中に大火に遭遇したことをきっかけに、安価で耐震・耐火性能のある鉄筋コンクリート造として、アピールしたことから、函館だけでも16件の作品が委託されるに至ったらしいということです。

 論より、証拠です。この建物は幾度か遭遇した大火や地震にも耐え、1世紀近くも、昔と同じ姿のままで存在しています。

 

竣工 - 1921年(大正10年) 

構造・規模 - 鉄筋コンクリートブロック造4階建 (鎮ブロック)

所在地 - 函館市末広町17−15

設計者 - 中村 鎮

函館市 編 (Ⅱ) ⑥

旧リューリ商会

 この建物は、大三坂下の電車通り沿いに建っています。この大三坂は港を見下ろす異国情緒あふれる石畳の坂道として有名で、「日本の道百選」にも認定されているものです。 

 さて、この建物、旧リューリ商会とは、1907年(明治40年)に旧ロシアの貿易商の店舗として建てられたものです。

 この会社はソ連当局から極東漁業のスペシャリストとして認められ、国家資本を背後にめざましい活躍をした時期もありましたが、1933年(昭和8年)には終止符がうたれたといいます。  

 1984年(昭和59年)に当時の資料をもとに、川越電気商会が復元したのがこの建物です。イメージ保存ですね。

 雨仕舞の関係から、当時は普及しなかったであろう半円アーチのバルコニーを有する下見板張りの洋風建築です。窓廻りや蛇腹(コーニス)には木彫装飾が見られます。今まで、歴史ある建物であることを知らずに通り過ぎていましたが、調べると非常に興味深い。

 やはり、目に見える形で残すというところに意味があります。 

 函館散策はイコール、カルチュラル・ツーリズムなんですよね。

 

竣工 - 1907年(明治40年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市末広町18−23

受賞歴・指定等 - 歴風文化賞

函館市 編 (Ⅱ) ⑦

旧土沢商店 ─ 花かんろ

 この建物は八幡坂と旧函館区公会堂のほぼ中央にあり、多くの歴史的建造物が建ち並ぶ、港が丘通り沿いに建っています。

 通りに面した平屋部分の外壁を見ますと、簓子下見板張りや堅繁格子(縦方向に多く組子が入っている格子)の出窓といった和風のデザインになっていますが、日和坂に面する側面は下見板張りで両開きの縦長窓が等間隔に配置されるなどといった洋風デザインです。

 古くから、駄菓子やさんとして営業してきましたが、1995年(平成7年)に改修し、「甘味茶房 花かんろ」としてリニューアルしています。

 後方の2階建てはそのときに増築したものです。オリジナルではありませんが、違和感はありません。

 建築は時代や環境と共に、使い勝手が変わります。

 このように工夫をしながら保存活用することには大賛成です。

 白玉やあんみつ、おしるこ、天むすだけではなく豊富なメニューがあり、いつも多くの方が訪れています。

 

竣工 - 1921年(大正10年) 

構造・規模 - 木造平屋建(改修前)

所在地 - 函館市元町14-6

受賞歴・指定等 - 函館市伝統的建造物

函館市 編 (Ⅱ) ⑧

旧小林寫眞館

 函館は、道内の写真館発祥の地ですが、この旧小林寫真館は現存する写真館として、北海道最古の洋風建築であり、石川啄木も家族写真を撮ったという歴史ある写真館です。 

 1902年(明治35年)に神戸から入植した小林建蔵によって建てられましたが、1907年(明治40年)の大火で消失した後、再建され、昭和37年まで営業されていました。

 現在の店主も、函館市内で代々続く、写真館の跡取りですが、カフェやアンティークショップとしてではなく、写真館としての再生にこだわったといいます。

 2009年(平成21年)に、全面改装をし、創建当時の外観を復元しました。実に47年ぶりに写真館として蘇ったのです。

 

 切妻屋根の棟端部には懸魚風の妻飾りがあり、軒天井や軒蛇腹がこれらと一体となるなど、函館の洋風建築に関わった職人たちの思いと工夫を感じさせてくれます。

 創業当時のハイカラな雰囲気をしのばせる建築です。

 なお、2009年に全面改装の際に建設当時の外観を復元し、写真館として営業されています。

 

竣工 - 1907年(明治40年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市末広町13−2

設計者 - 村上甚三郎

施工者 - 村上甚三郎

受賞歴・指定等 - 歴風文化賞、市景観形成指定建築物

函館市 編 (Ⅱ) ⑨

古稀庵 ─ 旧渡辺商店

 古稀庵は1909年(明治42年)に海産商の店舗として建てられた、1階が和風、2階が洋風の上下和洋折衷町家です。 

 和洋折衷町家は明治の初め頃、函館で生まれ、その後、北海道各地に広がっていった、かってない装いの建物なのです。

 この大胆は発想は、どのようにして生まれたのでしょうか。

 明治には洋風文化が入ってきて、どこかに洋を入れたいという意識が働きました。

 北海道は伝統のない文化なので、伝統的な和風文化がなく、洋と和が同じ価値観を持っていたといいます。

 開拓者の自由な精神は、北海道ならではの家(和洋折衷町家)をつくったのです。

 なお、1階の和風はほとんどが商店だったといいます。

 この古稀庵は能登半島から大工を呼び、ヒノキを贅沢に使った建築であるといいます。

 胴蛇腹や軒蛇腹、ブラケット(持ち送り)、窓廻りの装飾に多くの手間が費やされているのがわかります。 

 ここで紹介している上下和洋折衷町家は比較的、平坦地にあるものが多いですが、坂にある町家の場合、遠くから、坂のまちなみを見上げますと、2階部分の洋風が目立ちます。

 明治・大正時代に、函館に降りたった人々は、見たことのないまちなみに、さぞかし目を見張ったことでしょう。                     

 

竣工 - 1909年(明治42年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市末広町13−2

設計者 -

受賞歴・指定等 - 伝統的建造物

その他 - 旧渡辺商店

古稀庵付属蔵竣工 - 1909年(明治42年) 

構造・規模 - 土蔵造2階建

所在地 - 函館市末広町13−2

設計者 -

受賞歴・指定等 - 伝統的建造物その他 - 旧渡辺商店付属蔵

函館市 編 (Ⅱ) ⑩

函館元町ホテル別邸 ─ 旧室屋、旧森宇兵衛商店

 この建物は1909年(明治42年)に、森卯兵衛商店という海産問屋の店舗兼住宅として建てられた木造2階建の建物です。

 1984年(昭和59年)からは民宿室屋として再利用され、外観のみならず室内空間も、往時の海産商、森商店の繁栄を物語っています。

 外回りを見てみましょう。 庇が2段あり、2階庇の上に、さらに屋根がかかっています。

 下屋になっていませんので、意匠上の2段屋根なのでしょうか、窓が連続していることから、雨の侵入を防ぐ目的なのでしょうか。

 これらの屋根は出桁造りになっていますが、あまり見かけない造りですね。

 

竣工 - 1909年(明治42年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市大町9−17

受賞歴・指定等 - 市景観形成指定建築物