建築を旅してplus

北海道開拓の村 編(Ⅰ) ①

旧札幌停車場

 「北海道開拓の村」は開拓時代の姿を子孫に伝えていこうという目的で、明治から昭和初期に建てられた北海道各地の建造物を移築復元・再現した野外博物館です。  

 その開拓の村の管理棟、出入り口にもなっているのが、この建物、「旧札幌停車場」です。

 この建造物は、1908年(明治41年)に建てられ、1951年(昭和26年)には老朽化のために取り壊しになった札幌停車場の正面外観を3/4に縮小し、再現したものです。

 なぜ、縮小したかというと、駅そのものを復元するには大きすぎるというのが理由のようです。 

 外観は、米国の同じ頃の木造建築に用いられたスティックスタイルと呼ばれる形式が取り入れられています。

 下見板と棒(スティック)による模様付けが特徴ですが、一見して、ハーフチィンバー様式のように見えるものです。

 明治時代には、列車が止まる場所は、全て停車場と名づけられましたが、利用者はこれを駅と呼ぶことが多かったといいます。

 通常の駅舎は入口が正面ですが、この建物の場合、入口の反対側も開拓の村側の正面になりますので、どちらから見ても正面の姿としたとのことです。

 この駅舎には、単に鉄道を利用する人々だけが訪れたわけではありません。

 人力車や馬車、食堂を利用する人も多く訪れました。

 昭和11年には駅舎東側に本格的な洋食レストランができ、賑わいを見せたといいます。

 現在の商業施設と一帯となった駅舎空間へとつながっていきます。

 

旧所在地:札幌市中央区北5条西4丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1908年(明治41年)

構造:木造2階建面積:1091.98㎡

北海道開拓の村 編 (Ⅰ)②

旧札幌警察署南一条巡査派出所

 明治18年(1885)に札幌創成橋の脇に最初に建てられたのは木造交番で、札幌創成橋交番所と呼ばれていました。 

 同じく、木造で一度改築された後、皇太子(後の大正天皇)の行啓に際して、木造交番ではみっともないとして、1912年(明治44年)に札幌の創成川沿いに建替えられた六角形のれんが造・瓦屋根の建物がこれです。

 当時、札幌商工会議所会頭であった高桑市蔵の寄付によるもので、昭和45年まで南1条交番として、長い間、市民に親しまれてきました。

 壁のれんがは、イギリス積み、小屋裏は洋風トラスになっており、内部を見ますと、入口付近に取調室、奥には事務室があります。

 なお、開拓の村内への移設に際しては、ほぼ原型のままトレーラーで運ばれたそうです。

 煉瓦造や石造は、甚大な被害をもたらした関東大震災を機に、建築が難しくなっていますが、道内のれんが建築は、結構、無傷で残っていますね。

 

旧所在地:札幌市中央区南1条西1丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1855年(明治18年)

構造:れんが造平屋建面積:7.5坪(24.82㎡)

解体年:1971年(昭和46年)

復元年:1978年(昭和53年)

寄贈者:北海道警察本部

北海道開拓の村 編(Ⅰ) ③

旧浦河公会会堂

 1880年(明治13年)、神戸において北海道開拓会社「赤心社」が設立されました。 赤心社とは、北海道開拓を目的に神戸で組織されたクリスチャンによる開拓団です。

 参考までに「赤心」とは「嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ」の意味です。

 この年には、広島・兵庫からの52名が、翌1881年(明治14年)には、愛媛・兵庫・広島三県からの男女83名が浦河に入植しています。

 人や手荷物とは別に荷物は帆船で運びましたが、千島まで流されてしまい、30日も遅れてしまったとか、土器類がほとんど壊れてしまったなど、散々な入植だったといいます。

 浦河町は北海道にあっては、比較的温暖で積雪も少ないとはいえ、開墾の厳しさは想像を絶するところですが、その後、牧畜業や商店経営、養蚕業、果樹園芸、醤油醸造業など、多角的な事業展開から、開拓事業を成功させていきました。

 1886年(明治19年)に「浦河公会」が組織されました。

 この会堂は、明治17年の日曜学校兼会堂に次ぎ、2代目の礼拝・集会所として1884年(明治27年)に建てられたものです。

 中には、礼拝するためにたくさん椅子が置かれており、聖書やオルガンもあります。

 下見板張りの外壁、柾葺切妻屋根、妻入の玄関などシンプルな構成はアメリカ西部開拓地の小教会の雰囲気を思わせるつくりになっています。

 

旧所在地:浦河郡浦河町荻伏15番地の2

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1897年(明治27年)

構造:木造一部2階建て面積:26.24坪(86.75㎡)

解体年:昭和58年復元年:昭和60年

北海道開拓の村 編(Ⅰ) ④

旧来正旅館

 この旅館の創業者であった来正策馬は、土佐藩主である山内豊信の御典医の子として現在の高知市に生まれます。

 1981年(明治24年)に屯田兵として東永山兵村に入植した策馬は、1898年(明治31年)に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業しました。

 しかし、1918年(大正7年)には、当時「あばれ川」と呼ばれていた石狩川の氾濫により被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しています。

 当時は、旅人の宿泊や馬車や鉄道の待合などに利用されて賑わったといいます。

 この時の建物が開拓の村に移転したこの旧来正旅館ですが、昭和59年まで営業していたものを移築、復元したものです。

 創建時の建物は、1階に待合室2室と帳場兼茶の間、家族の寝室などがあり、2階には客間5室と布団部屋がありました。

 外壁は土壁の上に漆喰塗り、木造真壁造りで入母屋屋根の和風建築になっていました。

 

旧所在地:旭川市永山1条19丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1919年(大正8年)

構造: 木造2階建面積: 77.09坪(254.81㎡)

収集年: 1984年(昭和59年)

復元年: 1985年(昭和60年)

北海道開拓の村 編 (Ⅰ)⑤

旧大石三省堂支店

 愛媛県出身の大石菊松は、旧友からの誘いがあり、倒産した札幌の「うずまき菓子店」建て直しのために北海道へと渡ってきました。妻と子供7人も北海道に移住したそうです。  

 菊松の三男である泰三は、札幌で家業である菓子製造の技術を習得した後、1925年(大正14年)に当時の帯広の繁華街電車通りに面していた中古の建物を購入し、菓子の製造販売を始めます。その建物がこれです。

 帯広は当時から、豆や甜菜、小麦、牛乳の産地で昔から菓子業が盛んでした。

 帯広の「大石三省堂」の本店は長男の輝次郎が、この建物、支店を三男の泰三が興したといいます。 

 本店は甘納豆を、支店は最中を得意としていたそうですが、昭和に入ってからは、支店では輪種(もなかの皮)を主に作っていました。

 親子二代にわたり、1955年(昭和30年)まで支店の営業を続けましたが、その後、業種転換を図り、菓子業に終止符を打ったとあります。

 屋根は切妻平入、店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場とを再現したものです。

 

旧所在地:帯広市東2条南5丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1907年(明治40年)頃

構造: 木造平屋建面積: 31.37坪(103.72㎡)

復元年:1986年(昭和61年)

北海道開拓の村 編(Ⅰ) ⑥

旧近藤医院

 この建物は、1900年(明治33年)に函館病院から古平病院長として招かれ、明治35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、1958年(昭和33年)まで使われていたものです。  

 写真には移っていませんが、石造2階建の蔵が併設されています。 

 これは明治後期に建てられた文庫蔵で、清吉の書庫及び研究室として使われていたものです。清吉は読書家で、医学の本だけでなく、歴史、自然、芸術、語学、文学、建築などいろいろな本を読んでいました。 

 医療棟に隣接する文庫蔵は私設図書館とも呼ばれるほど、多くの蔵書が収蔵されていました。

 

 古平大火で病院が焼けてしまい、1919年(大正8年)に新しく建てたのが、この建物です。1階には診察室、手術室、薬局、茶の間などがあり、2階が居室になっていました。 

 洋風建築が多数建っていた小樽の建築を参考に、さらに豊富な建築の文献を基に自らが設計した医療棟です。

 清吉は、患者がいれば、例え、夜中であっても、走り回りました。

 専門は内科ですが、外科、産科などの分野の病気でも診察しました。

 時にはお金のない人や、一握りの野菜、魚でも見てあげていたといいます。

 さらに、古平というところは、船でないと行けない小さい村もたくさんあり、急病人が出ると嵐の海を小舟で渡って見てあげていたといいます。赤ひげ先生ですね。

 

旧所在地:古平郡古平町大字浜町167番地

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1919年(大正8年)

構造: 木造2階建面積: 58.76坪(193.93㎡)

収集年: 1982年(昭和57年)

復元年: 1984年(昭和59年)

寄贈者: 近藤雪一

北海道開拓の村 編 (Ⅰ)⑦

旧三〼河本そば屋

 この建物は、1885年(明治18年)頃に石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、そば屋の修行を積み、1909年(明治42年)頃に三〼河本そば屋ののれんを継いで新築した店舗です。

 徳松は小樽には来たものの、身寄りがないため、仕方なく勤めたのがヤマキ蕎麦店という店でした。さらに、職を転々とした後、再び、ヤマキに戻ってそば屋の修業を続けます。

 その後、「三〼上坂」そば屋に移りますが、抜きん出た経営能力で番頭に昇格、ついには店舗を買収し、店主となります。

 この店舗があった若松町(現住吉町)は小樽市街の中でも最も栄えた地域にあり、幹線の通りに面していたことや、遊郭へ通じる道筋でもあったことから、大変に繁盛していました。

 酒料理も振舞われており、食事や宴会の場として多くの人々に利用されていたといいます。

 

 建物を見てみます。ファサードの両側には、「東楼」と「三〼」の文字が見えます。

 開業当時には「東楼三〼(あずまろうさんます)」と称していたことによるものです。

 正面には煉瓦の煙突が見えます。そばを茹でるかまどの燃料は石炭だったといいます。

 また、2階には50人ほどのお客が入れる座敷と女中部屋があり、1階は大きな調理場と家族が暮らす部屋になっていました。三〼河本そば屋は1986年(昭和61年)、北海道開拓の村に寄贈されています。

 

旧所在地:小樽市住吉町16番7号

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:主屋─1909年(明治42年)石蔵─1925年(大正14年)頃構造:主屋─木造2階建、石蔵─木骨石造り二階建面積:主屋─78.27坪(258.76㎡)

解体年:1986年(昭和61年)

復元年:1986年(昭和61年)~1987年(昭和62年)

北海道開拓の村 編 (Ⅰ)⑧

旧山本理髪店

 この理髪店は大正の終わりに、旧札幌郡藻岩村大字円山村(現:中央区南1条西24丁目)に建てられたものです。

 北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として、1986年(昭和61年)までの長きに亘り親しまれてきましたが、翌年「北海道開拓の村」に移築・復元されています。

 この建物は藤田という方により、大正末期に建てられ、昭和15年には荒木氏に引き継がれ、昭和19年に山本氏が購入したとあります。藤田理髪店、荒木理髪店、山本理髪店という変遷があったわけです。

 

 建物を見てみます。急勾配の切妻屋根、棟折れマンサード、玄関の雨よけアーチ、間口2.5間のファサードを飾る羽目殺し窓の桟によるデザインなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観です。

 道路に面する正面だけを白ペンキ塗りにしていたといいますから、その通りに復元されています。中に入ってみます。3、4人のお客さんが調髪できる空間が確保されており、年季の入った鉄製で回転式の椅子があります。

 私的には、開拓の村のような博物館的保存に求めるのは、やはりタイムスリップしたようなリアルな空間から感じられるノスタルジアですが、マネキンの存在が、より、その効果を高めてくれているように思えます。

 また、2013年6月30日付で、この「北海道開拓記念館・旧山本理髪店」が全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)より「理容遺産」に認定されています。

 「大正期の洋風建築の特徴を残した北海道開拓期の理容店。傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨よけアーチなどその時代の建築様式の姿を体現している」というのが、選定理由となっています。

 

旧所在地:札幌市中央区南1条西24丁目(札幌郡藻岩村大字円山村)

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:大正末期構造: 木造2階建面積: 面積:25.38坪(83.90㎡)

解体年:1986年(昭和61年)

復元年:1987年(昭和62年)

北海道開拓の村 編 (Ⅰ)⑨

旧松橋家住宅

 この建物が建っていた中央区北1条東7丁目周辺には、北海道帝国大学総長や北海道庁長官が住んでいました。

 明治・大正・昭和にわたる都市生活者の生活がうかがえる住宅で、1918年(大正7年)に松橋家の所有となり、居住していましたが、それ以前の記録は残っていません。

 建築以来、数度の増改築が見られますが、1918年(大正7年)の状況に復元したものです。

 洋間を取り入れはじめた頃の家で、玄関の扉も観音開きになっています。 

 10畳の洋風応接間、上げ下げ窓、洋風トラス構造から明治中期の建築と考えられています。 

 松橋家は、明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業及び土地会社経営に従事しました。 この家には精神療法関係をはじめとする、3000冊の本が展示されていますが、これは松橋家の基礎をつくった松橋吉之助(1875~1943)が残したものです。

 松橋吉之助は、小学生の頃から学校の行き帰りに野菜を売ったりしながら家計を助けていました。中学校を途中で辞めた後、農業をしながら、自分で宗教や哲学の勉強をしたそうです。

 その後、北海道炭礦鉄道会社に入り、札幌駅助役、江別駅長、岩見沢駅長を勤めますが健康を害して退職、東京へ病気療養のため上京した際に、精神療法の研究家、桑原天然と出会い、精神哲学、精神療法を学びました。

 自らも1907年(明治40年)に諸病治療、諸法術原理を説いた「思念術」という著作を刊行しています。

 さらに、内部を見ますと、違い棚のある床の間や回り縁付きの離れや3畳の女中部屋があり、古いしきたりが残っていた時代の家族制度をうかがい知ることができます。

 

旧所在地:札幌市中央区北1条東7丁目(札幌区北1条東7丁目) 現

所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1897年(明治30年)

構造: 木造2階建て面積: 面積:80.94坪(267.53㎡)

解体年:1980年(昭和55年)

復元年:1981年(昭和56年)

寄贈者:松橋合名会社

北海道開拓の村 編(Ⅰ) ⑩

旧藤原車橇製作所

 1898年(明治31年)、兵庫県出身の宮大であった工藤原信吉は深川に入植し、農業の傍ら大工を兼業していました。さらに、車橇職人であった藤原清平に師事し、馬車・馬橇製作を修行します。

 1903年(明治36年)には妹背牛に居を移し、車橇製造を開業しました。以後3代にわたり営業を続けました。  

 この建物は作業場と住宅からなり、木造切妻平入りの構造ですが、大工の技能を活かし、昭和36年に自らが建築しました。当時の写真や聞き取りを元に再現されたものです。

 なお、内部には当時の車橇製造の様子が再現されています。

 

旧所在地:雨竜郡妹背牛町本町東2丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1903年(明治36年)

構造: 木造平屋建(一部2階建)面積: 75.32坪(248.99㎡)

復元年:1986年(昭和61年)