建築を旅してplus

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ①

旧武井商店酒造部

 武井家本家は 代々、武井忠兵衛の名を継ぎ、いくつもの鰊漁場を青森県や樺太(現:サハリン)に経営すると共に、石炭荷役、回船業、酒造業、リゾート業をも営むなど、多角経営で有名でした。

 この建物は、二代目忠兵衛の姉婿である松兵衛が1886年(明治19年)頃、泊村茅沼に建てた店舗兼住宅で、酒造業を経営主体としていたといいます。

 茅沼では当時、石炭が発見され、海では鰊がとれ、町は賑わっていました。

 酒造業は9年後の1895年(明治28年)頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」を製造していました。

 戦時下の統制で酒造中止命令が出された1944年(昭和19年)まで続けられていましたが、その後、雑貨と呉服も扱うようになったといいます。

 主家は木造2階建、寄棟屋根で、外壁は下見板張り、上げ下げ窓、軒を隠す軒天井が取り入れられるなど、洋風意匠の要素が見られる一方で、建物内部は典型的な和風建築になっています。

 

旧所在地:古平郡泊村茅沼

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1886年(明治19年)頃構造: 木造一部2階建面積: 178.00坪(588.42㎡)

収集年 1985年(昭和60年)

復元年 1988年(昭和63年)

寄贈者 武井健太郎

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ②

旧福士家住宅

 船大工の子として生まれた福士成豊(1838年~1922年)は、造船技術を父から学ぶと共に、独学で英語を学び、お雇い外国人ホーレス・ケプロンの道内調査団に通訳として同行、さらにはブラキストン線で有名なブラキストンから気象観測を受け継ぐといった才能の持ち主です。

 その功績をさらに詳しく調べてみます。 函館・船場町(現・末広町)の自宅に気候測量所を設け、日本人初の本格的な気象観測を始めます。

 1875年(明治8年)には、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査・測量して「クリル諸島海線見取図」を作成、その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たしています。

 さらに、福士成豊は新島襄のアメリカ密航を手伝いった人物としても知られています。

 

 次に、建物について述べてみます。 この建物は明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅が混合された建物ですが、ここに成豊が明治半ばから1922年(大正11年)まで居住していました。

 余談ですが、成豊は、この建物の中で、洋服を着て、朝昼はパン、バター、ジャム、牛乳の食事をし、ベッドで寝るという洋風な生活をしていたといいます。

 西洋下見板張り、上げ下げ窓付きの洋館は明治前期の洋風建築の特徴を残しているものですが、札幌病院診察室を移築したものといわれています。

 建物内部を見ますと、洋館には福士成豊の業績、和風住宅には明治・大正期の生活が展示されています。

 

旧所在地:札幌市中央区北4条東1丁目1番地(札幌市北4条東1丁目)

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内 建設年度:洋館:明治前期  住宅:明治後期

構造: 木造一部2階建面積: 面積:77.82坪(257.3㎡)

解体年:1973年(昭和48年)

復元年:1980年(昭和57年)

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ③

旧有島家住宅

 文学者の有島武郎(1878年~1923年)は、明治11年に東京で生まれましたが、札幌農学校へ進学後、12年間に渡り、札幌やニセコで暮らしました。

 この建物は、有島が明治43年(1910年)5月から翌年7月頃まで生活した家です。

 一般の住宅にも、洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物で、鉄格子のついた上げ下げ窓や雨戸のある縁側などが施されています。

 内部には、有島についての資料が展示されています。

 この家で生まれた3人の子どものために書いた本もありますが、時代でしょうか、ご本人もご家族も短命ですので、物悲しいですね。

 有島はこの家で「或る女のグリンプス」を執筆しましたが、この中に「豊平川沿右岸の1町歩ほどもある大きなリンゴ園の中にあった借家」とあるのがこの建物です。

 当時、有島は、東北帝国大学農科大学(札幌農学校、現在の北海道大学の前身)の予科教師でした。昼働く人のための、夜学校で教えたり、父から譲り受けた農場の土地を小作人達に譲ったりと、とても多くの人から喜ばれたといいます。

 また、代表作「生まれ出る悩み」、「小さき者へ」の中に、この住宅が登場します。

 この「生まれ出る悩み」のモデルとなった木田金次郎と出合った家でもあります。

 なお、有島は大正2年に北区12条西3丁目に住宅を新築・移転しており、その建物は札幌芸術の森に復元されています。 

 

旧所在地:札幌市白石区菊水9条1丁目(札幌郡上白石村大字上白石村2番地)

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1904年(明治37年)

構造: 木造2階建て面積: 25.75坪(96.04㎡)

解体年:1974年(昭和49年)

復元年:1979年(昭和54年)

寄贈者:南川吉右衛門

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ④

旧近藤染舗

 近藤染舗は1898年(明治31年)に創業された旭川で最も古い染物店です。

 この建物は、店の繁盛に伴い、1913年(大正2年)に地元の建築業者によって新築された2代目の店舗兼住宅ですが、外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしているといいます。

 職種柄、和風建築としました。 軒先には軒暖簾、さらに日除け暖簾もあり、当時の商いの雰囲気が伝わってきます。

 近藤家の出身地は徳島ですが、そこで古くから伝わる藍染の技術を受け継ぎ、はじめた商売でした。店の裏には、8つの藍壷を据え付けた染め物工場がありました。

 半纏(はんてん)、幟(のぼり)、旗などを染めており、旭川市内や近郊の農村から注文を取っていたといいます。

 藍は古くから各地で栽培されてきましたが、現在では、伊達市が道内唯一の藍の生産地となっています。

 近藤染舗から、話がずれてしまいますが、参考までに、道の駅「だて歴史の杜」内には、藍染め体験施設「藍工房」があり、古くから伊達に伝わる藍染めの技法を指導員がわかりやすく丁寧に説明してくれています。

 私は、見学をしただけですが、教える側も、教えられる側も、皆さん大変に熱心でしたので、オリジナルの藍染製品を作ってみたくなりました。

 

旧所在地:旭川市1条3丁目右1号

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1913年(大正2年)

構造: 木造2階建て面積: 面積:54.85坪(181.31㎡)

解体年:1983年(昭和58年)

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ⑤

旧浦河支庁庁舎

 1897年(明治30年)に北海道庁は郡区役所を廃止し、支庁制度を設けた結果、浦河支庁が置かれることとなりました。 

 この建物は、1919年(大正8年)に地元の浦河村、及び道庁の費用で建築されましたが、1932年(昭和7年)には日高支庁と名前が変わりました。

 さらに、1956年(昭和31年)に浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として1978年(昭和53年)まで、利用されていたそうです。

 以前建っていた庁舎は木造でしたが、火事で延焼したために、新庁舎は石造にしようとの意見が多かったものの、石を用意するのが困難であったことから、石造りのデザイン風につくったといいます。(柱型や軒廻りの装飾にその努力の跡が見受けられます。) 

 外観はバルコニー、上げ下げ窓、玄関ポーチや、その上のアーチ窓、三角ペディメント、軒廻りに装飾りが施されており、基本的には洋風古典様式を採用していますが、シンメトリーにはなっていません。

 室内は、階段手摺や腰壁の羽目板張り、壁の漆喰塗りなど当時の雰囲気が再現されています。建物の中には、支庁制度の移り変わりなどの資料や、人力車など当時使われていた道具が展示されています。

 木造最後の支庁建築だそうです。

 

旧所在地:浦河郡浦河町大通2丁目23番地(浦河郡浦河村大字浦河)

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1919年(大正8年)

構造: 木造2階建て面積: 面積:193.50坪(639.67㎡)

設計者:家田於兎乃助

施工者:

解体年:1980年(昭和55年)

復元年:1981年(昭和56年)

寄贈者:浦河町

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ⑥

旧開拓使工業局庁舎

 開拓使は、北方開拓のために1869年(明治2年)から1882年(明治15年)まで置かれた官庁です。 

 北方開拓のために、さまざまなさまざまな分野の業務を行なってきましたが、その中で建築・土木・工業分野を統括していたのが、1873年(明治6年)に設置されたこの開拓使工業局庁舎です。

 大通り東1、2丁目一帯に大きな工場を有し、この庁舎はその中央にありました。もちろん、工業局の中には建築のセクションもありました。 

 開拓使は、風土に適した建物の改良(防寒対策等)を図るために、洋風建築の導入を進めました。

 通りぬけの玄関ホール兼階段室をもつ平面構成、柾葺屋根、大棟端の頂華、西洋下見板張り、外壁のペンキ塗り、上げ下げ窓、軒先のブラケットの装飾、ポーチの破風飾り1階窓の三角ペディメントなどに米国建築書を参考にしたとされる洋風建築の特徴が見られますが、全体としては簡素、簡潔なスタイルとなっています。 

 工業局営繕課の設計業務の実態を示す歴史的価値の高い建物ですが、明治初期の北海道開拓を支えた同局工作場の現存唯一の遺構であり、時計台や豊平館よりも古いものです。

 なお、開拓史の建築は1877年(明治10年)を境として、様式の変化が見られるといいます。

 明治10年以前はデザインや装飾に凝ったアメリカ東部の古典様式を取り入れ、明治10年以後は西部開拓地の木造建築の様式を取り入れており、その境にあるのがこの建物であるといいますから、たいへんに興味深く感じます。

 平成25年8月7日に国の重要文化財として指定を受けています。

 

旧所在地:札幌市中央区大通東2丁目(札幌東創成町)

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1877年(明治10年)

構造: 木造2階建て面積: 面積:99.98坪(330.05㎡)

収集年:1969年(昭和44年)

復元年:1979年(昭和54年)

寄贈者:財団法人 札幌彰徳会

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ⑦

旧開拓使札幌本庁舎

 開拓使は、北方開拓のために1869年(明治2年)から1882年(明治15年)まで置かれた官庁です。 

 この建物は外観は1873年(明治6年)に建てられ、1879年(明治12年)に焼失した開拓使札幌本庁舎の外観を再現したものです。外観保存ですね。

 現在の北海道庁赤レンガ庁舎の30間北隣に建設され、今でもその外形が縁石で示されています。  

 とても大きな建物ですので、当時の人々はたいそう驚いたに違いありません。

 独特なというか、不思議な外観ですね。 

 開拓の村では、建物内部2階にを総合案内コーナー・研修室・休憩室を兼ねたホールとして、地階には200人収容の講堂があるなど、開拓の村のビジターセンターとして使われています。

 この建物は下見板張りの代表作とされていますが、もともとは木骨石造で図面が書かれたものの、良い石材がとれなかったことから下見板張りに代わった経緯があるそうです。

 

旧所在地:札幌市中央区北3条西6丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1879年(明治6年)

構造: 木造2階建 (現:鉄筋コンクリート2階建)面積: 447.93坪(1,480.40㎡)復元年:1998年(平成10年)

北海道開拓の村 編(Ⅱ) ⑧

旧開拓使爾志通洋造家(白官舎)

 この建物は、1878年(明治11年)に完成した開拓使の職員住宅ですが、完成後、順次払い下げられました。 

 外観に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていたといいます。

 外観はアメリカ中西部の建築様式を模範とし、上げ下げ窓や西洋下見板張りといった洋風仕立てになっています。

 構造は2'×4'工法の一種で、時計台と同様、バルーンフレーム工法が使われていますが、内部は座って台所仕事ができる「座流し」や畳敷きや襖からなる和風になっていますから、この建物は、北海道の住宅様式に影響を与えた和洋折衷様式の先駆けといえますね。

 なお、有島武郎の小説「星座」の舞台として知られています。

 

旧所在地:札幌市中央区南2条西6丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1878年(明治11年)

構造: 木造2階建面積: 面積:77.49坪(256.14㎡)

解体年:1986年(昭和61年)

復元年:1993年(平成5年)

寄贈者:大友正三郎

北海道開拓の村 編(Ⅱ)⑨

旧小樽新聞社

 小樽新聞社は1894年(明治27年)11月に創立されています。 

 この時代には、函館毎日新聞、北海タイムスとともに北海道を代表する新聞の一つでした。

 特に、商業情報の提供に力を入れたことから、全道の商人の必読紙として知られていましたが、1942年(昭和17年)には北海道新聞に統合されてしまいます。

 創業当時は1階に営業室、2階に編集室と社長室、3階には会議室が設けられ、印刷を行なう工場棟は裏側にあったそうです。

 この建物は、木造の骨組みに札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を外壁に積み上げ、カスガイで一体化した木骨石造3階建の構造で、間口は12.6m、奥行きは14.7mあります。なお、石厚は33cm、内側に建てた13.5cm角の木材などで屋根や床の荷重を支えていました。

 さらに、開口部扉外部には鉄扉が設けられて、防火・防犯への配慮がうかがえます。

 この旧小樽新聞社の木骨石造は、鉄筋コンクリートが普及する直前に中規模の建物に採用された構造であって、明治期石造建築の特徴が示されている生き証人のようなものですが、残念なことに、移転に際して、内部の木骨はコンクリートに変わってしまいました。

 なお、上部に見られる屋根飾破風の紋章デザインは東京美術学校教授を務めた海野美盛によるものです。

 内部に入ってみます。1階部分には新聞の歴史にまつわる資料や活版印刷の鉛のはんこが展示されていました。この時代は大変だったんだなぁーと実感です。

 

旧所在地:小樽市堺町7番30号

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1909年(明治42年)

構造:木骨石造三階建面積:113.18坪(374.16㎡)

設計者:丸藤留治(棟梁)

施工者:丸藤留治(棟梁)

解体年:1975年(昭和50年)

復元年:1975年(昭和50年)~1980年(昭和55年)

寄贈者:(株)丸亀小倉商店

北海道開拓の村 編(Ⅱ)⑩

旧北海中学校

 旧北海中学校は、前進が1885年(明治18年)に札幌農学校第三期生らが中心となって設立された私立北海英語学校です。

 札幌農学校の予科入学を目指す中等教育機関としてスタートしました。

 当時の義務教育は小学校まででしたので、中学校へは試験を受けて入る必要があったといいます。当初は、夜間に授業が行なわれ、区立小学校や私塾を間借りしていました。

 1905年(明治38年)には正式に中学校として認可となり、初代校長には元札幌区長で衆議院議員の浅羽靖が任命されています。

 札幌における私立中学の草分けであり、札幌を代表する名門私学です。

 この校舎は、1908年(明治41年)から翌年にわたって建築された本館部分で、事務室、職員室、生物教室などを備えていたものです。

 外観の意匠は、明治半ばから大正期の官庁や学校の木造建築によく見られる様式です。

 正面から見ると、ヨーロッパの古典様式の典型であるシンメトリーの構成になっています。連続した窓の上に三角ペディメントが備えられてる洋風のつくりですが、窓は横開きになっています。

 中に入ると、学校の歴史が紹介されており、当時の教室や授業の様子が浮かんできます。

 

旧所在地:札幌市豊平区旭町8丁目60番地(札幌郡豊平町大字豊平村)

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

北海道開拓の村内建設年度:1909年(明治42年)

構造: 木造平屋建面積: 面積:181.75坪(600.69㎡)

解体年:1978年・1981年(昭和53年・56年)

復元年:1982年(昭和57年)

寄贈者:学校法人 北海学園