建築を旅してplus
北見市 編 ①
ピアソン記念館
ピアソン記念館は、1914年(大正3年)、ウイリアム・メレル・ヴォーリズの設計によるもので、アメリカ人宣教師のピアソン夫妻が35年間にも及ぶ北海道での伝道・慈善活動の内、15年間にわたり、生活した建物です。
1971年(昭和46年)には北見市が復元し、「ピアソン記念館」として開館されています。 なお、記念館までの通りが「ピアソン通り」と命名されており、2001年には、北海道遺産に選定されました。
ジョージ・ベック・ピアソンについてですが、1888年(明治21年)に来日し、東京の明治学院大学で教鞭をとった後、1895年(明治28年)に来道しています。
1915年(大正4年)には野付牛(現在の北見市)に夫妻で入地した後、北海道各地での伝道活動や、アイヌの生活援助、教育支援を行なってきました。
エピソードの1つとして、1907年(明治40年)帯広の十勝監獄教誨師となり、監獄大ホールで800余名の囚人に対して説教をした際に、多くの囚人達は自身の罪を悔いて、むせび泣き、さらに看守や職員まですすり泣いたといいます。
その後、500人が入信する決心をしたとのことですが、この1件が全国に広まり、ピアソン夫婦は一躍、全国的に有名になりました。
また、北見に遊郭設置の話が持ち上がったときには反対運動に立ち上がり、買い集められた農家の娘達を大金をはたいて連れ戻して自宅にかくまいましたが、恨みを買ったピアソン夫人は料亭の主人に棍棒で殴られ、大怪我を負うという事件までおきています。
しかし、最終的に北見に遊郭が設置されることはありませんでした。
このような、長年の活動が、多くの人々の心の糧になったと言われています。
なお、ご夫婦がアメリカのエリザベス市出身というご縁から、北見市とエリザベス市は姉妹都市となっています。
さて、建物の話しに戻ります。 構造は木造2階建、内部は根太や垂木が露出する山小屋風で、外壁はクリーム色を基調に、緑色の窓枠と緑色の屋根といった大胆なカラーリングになっており、周辺の緑の景観にマッチングしています。
これは、ヴォーリズが原案を手がけた後、ヒンデルに設計が引き継がれたという北星学園創立百周年記念館にも類似したデザインです。
当初はピアソン自身が設計したものと思われていましたが、1995年になって、日本各地に1600棟とも言われる、たくさんの西洋建築を手懸けた有名建築家、ヴォーリズ(1880-1964)の設計であることが、図面の発見を機に判明しました。
日本最北のヴォーリズ建築としてたいへん貴重な存在ともなっていますが、残念ながらヴォーリズ本人は、近江にある設計事務所から、一度も北見に足を運ばなかったそうです。
ヴォーリズの話を少しします。彼は当初、建築家を目指し、マサチューセッツ工科大学に入学が決まっていましたが、家庭の事情で断念します。その後、アメリカのコロラド大学哲学科を卒業後、24歳のときにキリスト教の伝道者として来日、その後、近江八幡に英語の高校教師として赴任したものの、キリスト教熱の高まりを案じる勢力に押され、わずか2年ほどで解職の憂き目にあいました。
しかし、このことをきっかけに、メンソレータム(現メンターム)などで知られる近江兄弟社を設立し、その利益で社会奉仕事業を次々に興すなど、不思議な運命に導かれながら、建築家となったのです。
それにしても、当時は越中富山の薬売りの家庭薬がしっかりと根を張っていた時代、加えて、何ら商才のないヴォーリズが、この薬を日本屈指の家庭薬の地位まで押し上げるのは至難の業でした。いろいろな方々の協力があってこその成果であったようです。
なお、1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢で近江兄弟社学園の学園長を努めた満喜子夫人の姓をとり、一柳米来留(ひとつやなぎ-めれる)と名乗っています。
代表作は、ピアソンにもゆかりのある明治学院大学礼拝堂、駿河台のアールデコ建築である山の上ホテルや神戸女学院大学、そして、保存問題で話題になった豊郷尋常高等小学校など数々の作品がありますが、現在でも100棟が現存しており、その内、30棟は歴史的建造物として登録されています。
隈研吾氏は、ヴォーリズの永遠に残ってほしいという思いが建物に乗り移っているような、さらに、使う人も、その思いを感じ取っているかのようだと述べていますが、これだけの建物が残っているということからすれば、 確かにそんな感じもしますね。
また、ヴォーリズは「建築は社会の器である」と述べていますが、それまで日本建築にはなかった「家は家族の健康を守るもの」という考えに貫かれた家をつくり、最も愛される西洋館を設計した人物として知られています。
さらに、終戦直後には、近衛文麿の密使として昭和天皇を戦犯第一人者と考えていたマッカーサー元帥に進言し、戦争責任を回避し、昭和天皇を守る事に寄与した人物ともいわれています。
竣工 - 1914年(大正3年)
構造・規模 - 木造2階建 180㎡
所在地 - 北見市幸町7丁目4番28号.
設計者 - ウイリアム・メレル・ヴォーリズ
受賞歴・指定等 - 北見市指定文化財、北海道遺産
北見市 編 ②
北見ハッカ記念館
明治35年頃から始まった北見のハッカ生産は、昭和14年頃には世界薄荷市場の約70%を占めることとなり、全盛期を迎えます。
北見市をはじめ、周辺地域を含めた、発展の礎をなした代表的な産業の一つとなったのです。
しかし、当時、薄荷を加工する工場が地元になかったことから、本州企業の買い手市場となっていました。
そんな中、北聯(ホクレン)は1933年(昭和8年)に祈願のハッカ工場を建設し、世界にその名を轟かすきっかけとなっていったのです。
その後、ハッカは化学的に合成する手法が主流となり、栽培面積が激減することから、1983年(昭和58年)には工場閉鎖・解体となりました。
しかし、同時にホクレン農業協同組合連合会からの寄贈もあり、1986年(昭和61年)には旧事務所を北見ハッカ記念館として、工場敷地内で20m移築・復元し、ハッカ関係資料の展示を行なっています。
建物を見ますと、外壁は、ドイツ下見板張り、屋根は半切妻屋根とし、かって正面にあった事務所のスタイルに習い、ドイツスタイルを継承しています。
竣工 - 1935年(昭和10年)
復元構造・規模 - 木造2階建一部平屋
所在地 - 北見市南仲町1丁目7番28号.
設計者 - 大田正之
施工 - 田中組
受賞歴・指定等 - 北見市指定文化財、日本近代化産業遺産
その他 - 旧名称 : 北聯野付牛薄荷工場研究室兼事務所