建築を旅してplus
帯広市 編 ①
帯広双葉幼稚園
帯広で最初の幼稚園は大井浅吉を園長として1911年(明治44年)、東1条9丁目3番地に誕生しています。
創立満10年を期に、この地(帯広市東4条南10丁目1他)に新築した園舎が、この帯広双葉幼稚園です。名称の由来ですが、「栴檀ハ双葉ヨリ馨シ=せんだんはふたばよりかんばし」ということわざより取ったもので、これは「大成する人は幼少のときからすぐれている」というたとえなんだそうです。
設計者は二代目園長で、大井浅吉を義理兄に持つ臼田梅と伝えられています。
フランク・ロイド・ライトの図面など、アメリカの建築を参考にしたといいます。
この臼田梅は専任保母を務め、平取でバチェラー博士のアイヌ伝道にも協力したという多才な人物です。
藤森照信は著書「建築探偵東奔西走」の中で、日本一メルヘンチックな園舎とも、幼稚園番付にすると東の横綱などと評しています。
確かに、子供にとってはワクワク感のある空間が形成されています。幼児教育の祖といわれ、数学的な原理学習用にと球や立方体の玩具を開発したことでも知られるフレーベルという人物がいますが、臼田梅は、このフレーベルの幼稚園思想を具現化しようと球体のドームの下に正方形の遊戯室を納めたそうです。
単なるメルヘンチックな造形にしようということではないんですね。
なお、フランク・ロイド・ライトやヴァルター・グロピウスといった建築家もフレーベルの思想に影響されたといいます。
外観を見ますと、玄関屋根上部の両脇には控えめな尖塔が、大きな赤い八角ドーム上部中央にも尖塔が立ち上がり、さらに切妻の屋根窓が施されています。
惜しまれながらも2013年度末に閉園していますので、内部をみることはできませんでしたが、残された図面を見ますと、八角形の遊戯室を中心に、その四隅に保育室が配置されています。これは遊戯室に一人居れば、4つの保育室に居る幼児が何をしているのかわかるといった平面計画がなされています。
私は、かつて年賀状にこの建物のエスキースを描いたことがありますが、とても絵になる建物ですよね。
竣工:1922年(大正11年)竣工、翌年4月開校。
構造・規模: 木造平屋建、鉄板葺、建築面積311㎡
所在地: 北海道帯広市東4条南10丁目1他
設計者: 臼田梅
施工者: 本名木材:本名音吉、下請として、棟梁に萩原延一
指定等:登録有形文化財・重要文化財指定
その他:工事費は当時のお金で16000円、
帯広市 編 ②
旧三井金物店
山梨県北巨摩郡出身の三井徳宝が菱三の印で金物店を開いたのが1898年(明治31年)、1902年(明治35年)には塗屋造の店舗を新築しました。
徳宝は金物商にとどまらず、代議士としての才覚も発揮し、町会議員、道会議員を歴任しました。
1910年(明治43年)には、代議士の仕事が多忙なため、実弟の熊平に店一切を譲渡します。
熊平は1912年(大正元年)には、この煉瓦造の店舗に建替えました。
この地域では明治34年に建てられた十勝監獄石油庫で煉瓦が使われてはいたものの、民間としては最初に建てられた煉瓦建築でした。そのため、新店舗が出来上がった当時は珍しがって、近隣からの見物人が耐えなかったといいます。
なお、ここで使用された煉瓦は、桜の花弁が刻印されているなどから、十勝集治監製と伝えられています。
さて、この建物の最大の特徴は開口部の3連アーチにあります。
煉瓦造の3連アーチというと函館の旧遠藤吉平商店や旧金森洋服店、及び太刀川家住宅店舗がありますが珍しいですね。このアーチを支持する鋳鉄製の柱には「三井金物店」の文字をみることができます。
さらに、外壁を見ますと軒飾りやアーチ上部の装飾臥梁、切妻臥梁といった焼過ぎ煉瓦がプレーンな外壁のアクセントになるなど、美しい建物が演出されています。
竣工:1912年(大正元年)
構造・規模:れんが造平屋建 132㎡
所在地:帯広市大通南5丁目17
指定等:帯広市指定文化財
帯広市 編 ③
十勝監獄石油庫
帯広の開拓は1883年(明治16年)の晩成社(※)の入植に始まります。
区画測設されたのは1892年(明治25年)、これと前後して、北海道集治監釧路分監の仮館が晩成社事務所の西方、帯広川畔に建てられました。
さらに、翌26年と27年とに十勝分館の建設が行なわれ、28年、北海道集治監帯広分監として4月に開庁しました。
さらに、明治36年、十勝監獄として、独立改称、囚徒数1300余名を収容し、明治42年末には、庁舎棟、監房棟、工場棟、官舎棟、倉庫棟の他、付属棟94棟などから構成されていたといいます。
この石油庫は明治33年に造られた帯広市内最古の煉瓦造建築となる灯火用の油保管庫ですが、ここで使用された煉瓦と屋根瓦は、囚人が獄内の煉瓦工場で焼いたものです。
さらに、よく見てみます。切妻瓦葺きの屋根の鬼瓦に「水」の字が刻まれていますが、防火祈願でしょうか。
外壁の煉瓦は同段に長手と小口を交互に積むフランス積で、軒蛇腹が外観のアクセントとなっています。
※晩成社とは、北海道の開拓を目的とし、帯広市内の開墾に入った最初の団体の名称で、代表は依田勉三である。冷害やバッタ、ノネズミの襲来などから、事業は失敗に終わり、勉三の死後、1932年(昭和7年)に晩成合資会社は解散となったが、依田勉三は十勝開拓の父と呼ばれた。
竣工:1901年(明治34年)
構造・規模:煉瓦造平屋建
所在地:帯広市緑ヶ丘公園内
指定等:帯広市指定文化財(建物としては最初の帯広市指定文化財:S57年指定)
旧名称:北海道集治監十勝分館油庫
帯広市 編 ④
旧安田銀行帯広支店 ─ 十勝信用組合本店
この建物は1933年(昭和8年)に10万円を投じ、鉄筋コンクリート造2階建の新社屋として、建設されました。大通り沿いの角地に建ち、全体は基壇に見立てた平石積の腰壁、2層を貫くジャイアントオーダーや水平帯からなっています。
この角地に主玄関を設け、通りの2面を4スパンに分割、両面とも4本の柱が配されています。
重量感のあるこの建物は、北海道では7番目の市となった十勝の首都に相応しい銀行として、厳格な印象を与え、まち並を彩ったとありますが、現在もその存在感に変わりはありません。
なお、ガラスブロックの入った正面入り口は後の増築だとのことです。
現存する旧小樽支店、旧函館支店、旧横浜支店とも設計は安田銀行営繕課によるものですので、この建物もその可能性は大きいですが、デザインは若干、違っていますね。
竣工:1933年(昭和8年)
構造・規模:鉄筋コンクリート造2階建
所在地:帯広市大通南9丁目20
施工:清水組
帯広市 編 ⑤
宮本商産株式会社
創業者である宮本富治郎は1884年(明治17年)和歌山に生まれます。
明治31年に父と共に渡道、わずか19歳となる1903年(明治36年)には製麺や小売業を営む宮本富治郎商店を開業、その後1913年(大正2年)には米、酒類、食料品の卸問屋となり、第1次大戦後の好景気により利益を上げます。
1919年(大正8年)頃に建てられたのがこの建物ですが、屋根はマンサード形式で正面玄関を中心としたシンメトリー、壁は煉瓦の長手と短手を交互に見せるイギリス積です。
特徴的なのは、外観のデザインが東京駅と同じ、煉瓦と石で紅白の帯をつくるヴイクトリアンスタイルになっていることです。
北海道では珍しいスタイルですね。美しいです。
柱型や開口部のまぐさもしっかりと入っていますので、一見して純煉瓦造のように見えますが、木骨煉瓦造で装飾の御影石などはカスガイにより、木骨に接合されています。
また、正面中央上部ペディメントを見ますと「MIYAMOTO」の白地に青地のタイル字が見られますが、創建当時からのものだそうです。なお、使用された煉瓦は野幌産です。
竣工:1919年(大正8年)頃
構造・規模:木骨煉瓦造2階建 178.2㎡
所在地:帯広市西2条南5丁目1番地
帯広市 編 ⑥
真正閣
この建物は明治44年9月の行啓時に公会堂に付随して建設された御便殿です。
公会堂は昭和37年に解体されましたが、御便殿は真鍋庭園内に「真正閣」という名称で移築保存されています。
建物は亜鉛鉄板菱葺き、高い軒が特徴的な入母屋造の和風建築です。
なお、真鍋庭園は25,000坪に及ぶ日本初のコニファーガーデンで、北海道ガーデン街道8庭園の一つとしても知られています。
行啓:皇后、皇太后、皇太子などの出行
御便殿:天皇・皇族の行幸・行啓時に、休憩のために設けられた部屋
北海道ガーデン街道:北海道の代表的な美しい8つのガーデンが集中している大雪~富良野~十勝を結ぶ街道
旧名称 - 十勝公会堂御便殿
竣工 - 1911年(明治44年) 1962年(昭和37年)移築
構造・規模 - 木造平屋建
所在地 - 帯広市稲田町東2線6