建物を旅してplus

蝦夷三官寺 編 ①

伊達有珠「善光寺」

 1804年(文化元年)に、江戸幕府が蝦夷教化や北辺警備等を目的に北海道に建立した直轄の官寺で、伊達有珠の善光寺(浄土宗)、厚岸の国泰寺(臨済宗)、様似の等じゅ院(天台宗)を「蝦夷三官寺」と通称します。                

 これらは、入江に面した太平洋側近くに建てられていることが共通点となっています。

 最上徳内や近藤重蔵らが幕府の命を受け、南千島に渡ってみると、アイヌにキリスト教が浸透していることを知ります。

 1799年(寛政11年)に東蝦夷を直轄地にした幕府は、アイヌに対して3か条の施政方針を示しましたが、その第1条を見ますと、「外国人に親しみ、邪宗門(キリスト教)を信ずるもの極刑にする」とあります。ロシア人の南下対策、アイヌの国民化対策が必要であったのです。

 さらに、当時は蝦夷地に出かせぎに来て、死んだ人々を弔う寺も、僧もいなかったといった事情もあったようです。

 

 建物の話をしますが、幕府により、お寺を建てる事を禁じられていた時代にあって、しかも、開拓使(1869年─明治2年)が置かれる60年以上前に築かれた建物がその姿をとどめているわけですから、その空間に特別な力を感じざるを得ません。

 それぞれの場所が選定された理由は、当時の地域文化や交易の中心地であったなど、さまざまでしょうが、「場所に力がある」といったインスピレーションも働いたのではないかなどと思っています。

 「場所に力がある」を建築的にいえば、ゲニウス・ロキですが、この場合、故鈴木博之東大名誉教授による「地霊」という訳語がしっくりときます。

 さて、まずは、有珠の善光寺です。

 826年(天長3年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開基したと伝えられる浄土宗のお寺です。 

 伽藍が構成されたのが、1804年(文化元年)となっていますが、1613年(慶長18年)に松前藩初代藩主が祈願所として小堂を建立したとの言い伝えもあります。

 東京芝増上寺の末寺として指定され、1822年(文政4年)の有珠山大噴火で貴重な宝物や資料を失ったものの、江戸時代のたたずまいを今に伝える貴重な建物は残り、1974年(昭和49年)には国の史跡に指定されました。 

 現在でも、江戸時代に棟造、増築された茅葺屋根が特徴の、本堂(上部の外観写真左側)・客殿(右側)が拝観できます。 

 本堂は茅葺寄棟造の大屋根で覆われ、正面6間、側面10間で、柱間を桟唐戸、外壁は白漆喰で仕上げられており、内拝(こうはい)の蟇股(かえるまた)虹梁(こうりょう)木鼻(きばな)に施された彫刻はみごとです。

 また、茅葺大屋根の客殿の縁側や室内には随所に日本建築の意匠が見ることができます。

 なお、1983年(昭和58年)から1989年(平成元年)にかけて行なった修復工事で屋根は茅葺に、さらに客殿と玄関も復元されました。

 いつ行っても、この静寂の空間には癒されます。

 

竣工 - 1804年(文化元年) 

構造・規模 - 木造茅葺屋根

所在地 - 伊達市有珠町124

設計者 - 不明

受賞歴・指定等 - 国指定史跡

蝦夷三官寺 編 ②

様似「等じゅ院」

 1804年(享和4年)に、江戸幕府が蝦夷教化や北辺警備等等を目的に北海道に建立した直轄の官寺で、伊達有珠の善光寺(浄土宗)、厚岸の国泰寺(臨済宗)、そして、この様似の等じゅ院(天台宗)を「蝦夷三官寺」と通称します。

 

 二官寺目は様似の等じゅ院(とうじゅいん)です。 

 当時の様似には、多くのアイヌが暮らしていましたが、江戸時代には、すでに砂金採取のために多くの和人も移り住んでいました。

 ゴールドラッシュで賑わう交易の中心地だったんです。  

 さて、話を戻します。様似の等じゅ院は、幕府が瓦解した明治維新後に、寺領手当てなどが支給停止になり、一時、廃寺の悲運にあいましたが、1987年(明治30年)に再興され、その後、何回か移転を繰り返した後、1965年(昭和40年)には現在地に移転保存されています。 

 そのため、建立当時の面影を残すものはわずかに護摩堂(1807年-文化4年建立 上記写真) の姿だけですが、本堂には鎌倉時代(推定)に作られた聖観世音菩薩像や薬師如来三尊仏像(江戸後期・推定)など、様似町指定文化財の貴重な仏像がまつられているほか、2005年には歴代の住職記などの古文書(様似郷土館所蔵)と百万遍念珠箱が国の重要文化財に指定されています。

 護摩堂は一辺が2間半の正方形平面に菱葺鉄板の方形屋根がかかり、外壁は大壁、押縁下見板張りとなっています。

 建物を見ていると、お寺の若奥さんらしき方が声を掛けてくださいました。「蝦夷三官寺の1つである由緒ある寺院建築を勝手に拝見させていただいています。すみません。」と答えると、「それであれば、住職の読経が終わり次第、建物の概要説明をいたしますので、少々お待ちください」とのことでした。 

 恐縮でしたので、その場でお寺を離れましたが、大変に親切な対応で、ありがたく感じた次第です。 

 今度は、事前に問い合わせの上で、拝観させていただき、その際に詳しいお話も伺いたいと思っています。

 

竣工 - 1811年(文化8年) ※護摩堂の竣工年

構造・規模 - 木造菱葺

所在地 - 様似郡様似町字本町2-134-1

設計者 - 不明

受賞歴・指定等 - 様似町指定文化財  以下の写真は本殿です。

蝦夷三官寺 編 ③

厚岸「国泰寺」

 1804年(文化元年)に、江戸幕府が蝦夷教化や北辺警備等等を目的に北海道に建立した直轄の官寺で、伊達有珠の善光寺(浄土宗)、様似の等じゅ院(天台宗)、そして、この厚岸の国泰寺(臨済宗)を「蝦夷三官寺」と通称します。

 

 三官寺目は厚岸町に建つ国泰寺(こくたいじ)についてです。 

 厚岸町は寛永年間に松前藩がアッケシ場所(現在の厚岸郡界隈)を開設し、同20年にはオランダ船が漂着したと伝えられる道東文化の発祥地です。 

 国泰寺は江戸時代後期にロシアの南下・場所請負制度の弊害など北辺の危機が叫ばれる中で、箱館奉行の願い出により、1804年(文化元年)に設置が決定され、厚岸湾に突出するバラサン岬の神明宮(厚岸神社の前身、1791年ー寛政3年 最上徳内の建立)の旧地を含む10町四方の防風林を加えて、その寺領地として創建されたものです。 

 寺には、外門や内門、東面する本堂、観音石仏、仏舎利塔、竜王殿、馬頭観音堂、最上徳内建立の神明社跡(のちの現:厚岸神社で国泰寺に隣接)などがあります。  

 現存する建物はほとんど後代に改修されていますが、境内は江戸時代のたたずまいを伝えており、蝦夷地における特異な歴史的役割を果たしました。

 このお寺は鎌倉の金地院の末寺になりますが、記録によれば、その活動範囲は「十勝、釧路、厚岸、根室、国後、択捉」の6ヶ所という広大な区域でした。

 住職らの仕事は、管内を巡回し、死者の供養をすることを第一としていたそうです。

 1973年(昭和48年)に国の史跡に指定され、現在はサクラの名所としても知られています。 

 外門は反りのある切妻屋根で、両柱には組物がのせられています。また、内門には控柱が添えられており、貫の中間には透かした蟇股が備えられています。

 寺の格は十万石の大名並みといわれ、両方の門には徳川家の三つ葉葵門が刻まれており、将軍寺とも呼ばれたそうです。

 早朝の境内を散策してみました。やはり、静寂の空間はいいですね。

 

竣工 - 1804年(文化元年) 

構造・規模 - 木造所

在地 - 厚岸郡厚岸町湾月町1丁目

設計者 - 不明

受賞歴・指定等 - 国指定史跡