建築を旅してplus
道北 編 ①
大雪山展望塔エスポワールの鐘 ─ 上川町
旭川から、国道39号線を層雲峡方面へ向かうと、上川町の北側高台に「エスポワールの鐘」が見えてきます。
1984年(昭和59年)に上川町開基90周年を記念して、上川公園内に建築された展望塔の名称である「espoir」とは、フランス語で「希望」という意味だとのこと。
私は1990年代にも訪れましたが、その姿に変わりはなく、大切に使われているようです。 設計は六角鬼丈、吉田五十八賞や日本建築学会賞を受賞した日本を代表する建築家の一人で、現在は東京藝術大学名誉教授の職にあります。
外観を見てみます。みごとな造形美です。
タイル貼りは単なる装飾主義ではなく、アイヌ衣装からのメタファーで、文様は魔除けの意味があるのだそうです。
さらに、森の中にあるロケーションがいいんです。自然との調和の手法として、類似調和と対比調和がありますが、この空間は対比調和、つまり「図」と「地」、「自然美」と「人工美」を対比させることで、双方を際だたせる効果を狙っているようにも思われ、今や上川町のランドマークになっています。
もし、この展望塔がなければ、この山並みは単調で退屈な景色になってしまうのではないでしょうか。
内部エントランスに入ると、すぐ前面の螺旋階段中心部に設置してあるタイムカプセルが目に入ります。まるでタイムトンネルといったデザインです。その瞬間に「時間とか記憶」が連想され、単なる造形美に浸るといった感覚ではなくなってしまいます。
最上階まで昇ると、フランスメーカーの特注品である鐘が天井から吊り下げられて、9時から18時まで3時間おきに鐘が鳴る仕組みになっているんだそうです。
螺旋階段で展望階に昇れば、上川町市街と大雪山連峰を見渡すことができ、爽快です。ぜひ、また行ってみたいと思わせる空間でした。
竣工 - 1984年(昭和59年)
構造・規模 - 鉄筋コンクリート造
所在地 - 北海道上川町字越路
設計者 - 六角鬼丈
道北 編 ②
北の住まい設計社 ─ 東川町
この建物は1911年(大正元年)に東川第二尋常小学校所属北特別教授場として、開校したものですが、現存しているのは昭和3年竣工の普通教室3室と体育館、さらに職員室のみとなります。
校舎棟を見ますと、外壁は茶系に塗られた下見板張とし、窓枠や柱、さらに破風は白いペンキで塗られることで、全体が引き締まった印象に演出されています。
玄関ペディメントの中央を見ますと、星形マークが配置されており、建物全体のアクセントになっています。
さらに、屋根は雪が落ちやすいようにと急勾配になっています。
また、戦後に建てられた体育館を見ますと、入口にはボーチが付せられ、側面をパットレスが支えるなど、意匠にもさまざまな工夫が見られます。なお、窓や外壁は校舎棟と統一されています。
昭和58年に閉校した後、平成元年に東川町から売却されました。
この建物は家具工房「北の住まい設計社」が家具製作などの作業場として使用しています。 「北の住まい設計社」が旭川市内から、この旧校舎に拠点を移したのは1985年(昭和60年)ですが、木や緑の自然に囲まれた敷地内にはカフェやショ-ルームなどが設置されています。
私が訪れたときにも、このおしゃれな空間に多くの方々が訪れていました。特に、ショ-ルームにディスプレイされた北欧風の雑貨や家具は見ごたえがありました。
竣工 - 1928年(昭和3年)
構造・規模 - 木造平屋建
所在地 - 東川町5線東7号
その他 - 旧名称:東川第5小学校
道北 編 ③
道の駅(丘のくら) ─ 美瑛町
美瑛町は、丘のまちとして、北海道を代表する観光地の一つになっています。
町によりますと、地域資源として、この「美瑛の丘」と「美瑛軟石」をあげています。
美瑛軟石は、1906年(明治39年)から、1969年(昭和44年)頃まで採掘が行われてきましたが、現在は行われおらず、解体した倉庫等の石を再利用しているとのことです。
また、1989年(平成元年)から着工された本通土地区画整理事業では、建築協定により、腰壁に美瑛軟石を使用することを盛り込むなど、美瑛軟石による町並みの統一化が図られています。
さて、道の駅「丘のくら」についてです。「丘のくら」は、1931年(昭和6年)に建築された美瑛軟石造りの倉庫を改装して、2007年にオープンしたものです。
外観は切妻屋根の堂々とした佇まいです。
内装には美瑛産カラマツを使用するなど、地域へのこだわりを表現していますが、物産品も同様に、美瑛産にこだわっています。
また、駅前のホテルへもつながっていることから、便利な動線になっています。
この規模の町では、紋切り型のまちづくりから脱して、かなり、個性的なまちづくりが形成できるのではないかと期待しています。
竣工 - 1931年(昭和6年) ※諸説あります。
構造・規模 - 石造
所在地 - 上川郡美瑛町本町1丁目9番21号
道北 編 ④
佐賀家漁場 ─ 留萌市
この建物は留萌市街から増毛町に向かう日本海沿い、増毛寄りに位置しています。
佐賀家は青森県下北半島の出身で、1844年頃に留萌市礼受に漁場を開き、幕末期には有力な漁家へと成長しました。
その後、ニシンの群来が途絶える昭和30年代まで操業が続けられました。
この番屋は、切妻屋根で、建物の長手方向、中央よりもやや留萌側に入口があります。なお、このように建物の長手方向に入口がある形式を「平入り」と呼びます。
当時を偲ぶには、内部空間を見ることが必要ですが、残念ながら、後のお楽しみと言うことになってしまいました。
建築 – 明治前期~30年代
構造・規模 - 木造平屋建
所在地 – 留萌市礼受
指定等─国指定史跡
道北 編 ⑤
美瑛駅舎
美瑛駅は1899年(明治32年)に木造駅舎として設置されました。
1952年(昭和29年)に現在の石造駅舎として改築されましたが、白色の美瑛軟石が使われています。
美瑛軟石は大雪山の噴火による火砕流が堆積したものですが、明治39年~明治44年頃まで採掘が行なわれ、建築・土木資材として、広く使われてきたそうです。
なお、この趣のある駅舎は、「ふるさとの駅100選」に選定されています。
※「ふるさとの駅100選」は鉄道と旅の写真家 南 正時氏が選定したものです。
建築 – 1952年(昭和27年)
構造・規模 - 石造平屋
所在地 – 上川郡美瑛町本町1丁目1
道北 編 ⑥
旧花田家番屋
芸州広島を郷士とする上林家は、南部盛岡藩を経て松前郡福島村へと渡り、花田姓に改めます。1863(文久3)年には、一家を挙げて、この地、鬼鹿に移りました。
この建物は花田伝作氏によって建てられもので、最盛期には18ヶ統の鰊定置網を経営し、舟倉、米蔵、網倉など100以上の付属建屋が建ち並ぶ道内屈指の鰊漁家でした。
洋風意匠を散りばめた玄関から通り庭に入ると、右側には400㎡のスペースがあり、200名ほどのヤン衆が漁を待ち構えていたそうです。
左側には親方の居住兼執務スペースがありました。特に2階部分の細部意匠や素材は贅を凝らした造りになっています。
汽船による輸送業や牧場まで営み、500人以上を雇っていたといいますが、ニシンの漁獲高は1900年前後をピークに衰退の一途を辿り、昭和20年代後半には事業を成立させにくい状況に至ってしまいました。
なお、この写真は昭和63年8月に発生した留萌大洪水の翌日に撮影したものです。
竣工 :1905 (明治38) 年頃
構造・規模 : 木造2階建寄棟造(玄関のみ入母屋造)屋根こけら葺
外部下見板張、基礎自然石、土台敷 床面積906.477m2
所在地 : 留萌郡小平町鬼鹿広富35番地の2
その他:国指定重要文化財